完全なる孤独の世界で私を生きる




ここ最近はブログを書く気持ちが起きず、 では何をしていたのかというと、小説を書いていました。 一度は、徹底的に逃げ出したものでもありますが、 (捨てるつもりは全くなかったのですが、社会的には姿を消した感じです) 再び向き合おうという心が、すこし、取り戻されつつあるようです。 それが、自分という人間の、今の人生の状態かと思います。

十年ほど前のことです。 ある科学分野の新進気鋭の研究者の方と、なにかの際に帰りの電車が一緒になり、 初対面ながら、ほんの三十分ほどの一期一会の会話をしたことがあります。 そこで私はふと思い立って、こんなことを尋ねました。 「まったく誰も見ている者がなく、評価してくれる者もいない世界があると仮定して、 それでも研究成果をアウトプットしようとか、なにかを表現しようとか、 そういう思いって湧いてくるものだと思いますか? ご自身はどうですか?」 この質問に、新進気鋭の青年科学者は、 「なるほど、それは、いい疑問ですね‥‥‥」 と小さくつぶやくように言い、しばらく黙考しておられました。 そして、 「思うに、するんじゃないでしょうか。うん、僕は、やると思いますね」 と、明快な調子で答えたのでした。 どこか、「うん、そうだ」と、自分自身に踏ん切りをつけて答えた、 といった様子でもありました。

数駅間の短い会話で、この方とはそれ以後お会いすることもなく、 今では、お名前すら思い出せなくなってしまっているのですが、 (けっこうご活躍で、有名な方だったはずなんですけどね) このシーンは私の中で、なんとなく、というほどに胸の奥に残りつづけていました。

真理の探求をひと通り終えたと感じている今の私には、 かの青年科学者の言葉の意味が、かつて理解したのとは異なる趣をもって、 あるいは、途方もない階層性を内包する言葉として、改めてしみじみと深く響いてきます。 「誰も見ている者がなく、評価してくれる者もいない世界でも、表現をする」 それは、私が求めに求め尽くしていた「答え」でもありました。

真理の探求は、私が熱狂的に欲しがった、この答えこそ、私に与えてくれました。 天上天下唯我独尊のこの世界で、 たったひとり「私」しかいないのだと理解してしまった、 この途方もない孤独の世界で、それでも「表現」をしようと躍動する生命。

圧倒的な孤独。 それが、真の自由、真の解放の、答えだったなんてね。

誰も見ていない。 私しかいない。 他者の存在しない世界では、他者からの評価を求める必要もない。 だからこそ、思う存分、どんな生き方でもできる。 どんなことでも、表現できる。 それを自分自身に許すことができるし、行う勇気が持てる。

少女だったころ、私は見知らぬ他者に殺されかけたことがありました。 だからでしょう、ずっと、この世界が怖かった。 他者が怖かった。 生きることが、怖かった。 再び奪われ、損壊されることが怖かった。

そんな私が、慟哭と共に天に腕を突き上げ、希求した答え。 その答えをくれた存在とは、私自身に他ならないものでした。

孤独よ、こんにちは。 自由よ、こんにちは。 私よ、こんにちは。

さて、ひきつづき、生きようじゃないか。 この世界を。 圧倒的な孤独と共に。

—2022.10.12 新緑めぐる




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