人はすべてに飽きる、「悟り」にも飽きる、それが「悟った私」のエゴ消滅プロセスか




昨日ふと、「あ、そっか!」が頭の中に起きたので記録しておきます。

あ、そっか、私いつか「悟った私」という思考自体にも飽きるときが来るんだ。 そして「悟り」自体に興味なくなって忘れるんだろうな。 そういうのを「悟った私というエゴ(執着)消滅のプロセス」と言ってるのかもな。 「悟りそれ自体が消える地帯まで行って完成」って、そんな感じなのかも。 と、「ああ、そういうことだったか」と腑に落ちた感覚がありました。

「悟りとは、苦しみに飽きることである」なんて言い方もありますが、 自分の人生をふりかえってみると、確かに、 「人生に現れたなんらかの現象がマイブーム(夢中状態)となり、やがて飽きて忘れ去る」 ということの連続だったなあと、つくづく思います。 つまり、「悟り」とは「苦しむことに飽きた」時点で自動的に到来することになっている現象、 という言い方もできるかと思います。

だから「悟り」は、「求めて求めた挙げくに探し当てる」ということができないんですね。 「探すことにも飽きた」という状態にならないと、やって来ないという。

というわけで、ここで、自分の人生に起きた 「マイブーム → しばし夢中 → 飽きて忘れた → 新しいマイブームが来る」 といった出来事を、具体的に振り返ってみたいと思います。

ところで、この「マイブーム → 飽きる → 新しいブーム」の流れを見ていると、 バシャールの言うところの「目の前のワクワクを追いかけろ」というメソッドが、 実際のところ、当を得ている、というのもよく分かるなあと感じました。 「新しい状態(智慧)」を到来させるためには「飽きる状態」を到来させる必要があり、 その「飽きる」を発生させるには、「マイブーム(夢中・ワクワク)」が、 前提として生じている必要がある訳ですからね。

バシャールの言う、「ワクワクに従って生きろ」とは、 「そして飽きて、次へ行け。人生はそれの繰り返し = 諸行無常」 が、実は後ろにくっついていたんだなあ。 こういう「夢中 → 飽きる」の連続の果てに、「苦に飽きる」が生じて、 次に「悟り」という「新しい智、新しいマイブーム」の到来が起きてくる訳ですね。 振り返ってみると、確かにそういうプロセスだったなと思います。

で、話を戻して、私自身の「マイブーム & 飽きた」の軌跡です。

DVで受けた心の傷が忘れられず、夢中になっていた時代

この時代は、「ムキ―!」となっていろんなものを見ては怒りを誘発されていました。 「被抑圧者感情」「強者への怒り」「被害者意識」などがマイブーム(夢中)だった時代。 「発言小町」などでDV関連の投稿を読みまくったりしてましたね。

しかし今では、DVの悲しみ痛みはまるで他人事のようで思い出せず、忘れ去りました。 DV被害者という思考遊びに飽きたのでしょう。 そして、DV関連の記事などは今ではほとんど見ることがなくなりました。 そっちに意識の焦点が合わなくなった状態。

「結婚できない」という不安や焦りに夢中になっていた時代

40代で結婚した私は、30代後半は「結婚できないかも」 という恐れにウルトラ夢中(笑)になっていました。 「結婚できず孤独死かも」が自分の関心事の第1位! 完全にマイブーム(笑) 「発言小町」など晩婚関連の投稿や記事、漫画など読みまくってましたね。 (発言小町好きだなオイ・笑)

実際に結婚して安心した今では、焦りや不安の感覚を忘れ去っています。 晩婚や孤独死といったキーワードにもすっかり飽きています。 そして、晩婚関連の記事などは今では全く見ることがなくなりました。

性暴力に対し「許せない」という思いに夢中になっていた時代

私は友人に性暴力を受けたことがあり(それ以外にもあるのですが)、 そのPTSDが爆発して、一年ほど「あいつを許せない」という思いに夢中だったことがあります。 「許せない!!」がマイブームだった訳です。

この時代はあらゆる経路から「許すにはどうすればいいか」という情報を集めまくりました。 この出来事については、「ちゃんと相手にブチ切れる」をやったことで、 「許せない」の意識状態に飽きて、怒りの思考が薄れていきました。

今では「許すためには」といった記事も本も見ることがなくなりました。 同時に、許せなかった相手の姿も、ブログなども見なくなっていきました。 まるで許せなかった相手の存在自体が、私の世界から消えたかのようになっています。

スピにはまりスターシードやライトワーカーなどがマイブームの時代

スピリチュアルにはまってた時代は、「スターシード」「ライトワーカー」 などの世界観について、怪しみつつも惹かれていました。 「自分は特別な存在なんだ」と思うことで、承認欲を擬似的に満たそうとしていたのでしょう。

「スターシード」「ライトワーカー」のワードで検索しまくりの完全マイブーム(笑) 現在ではこういう世界観にはすっかり飽きて、ハマってた時代の自分を子供っぽく感じます。 例えるなら、小学生までは少女漫画雑誌「りぼん」に夢中で楽しめたけれど、 中学生になったら「マーガレット」など大人っぽい漫画じゃないと楽しめない、 というふうになるのと、まったく同じような感じだと思います。

今では「スターシードとは」などの記事を見ると恥ずかしくなってしまう状態に変化。

「アセンション」「五次元移行」「次元上昇」などにハマった時代

これも「スターシード」などと同様、「ほんまか?」と思いつつも、 「なんか地球凄いこと起きそう!」と思ってワクワクと夢中になっていました(笑) そういう関連の記事や本を貪り読んでましたね。

「五次元に移行したらどんな世界になるんだろう?」と想像していましたが、 「それが起きた世界」がどんなふうなのかは、想像しきれませんでした。

これって、一見するとスピリチュアルお花畑脳に毒されているかのようですが、 構造的には「結婚を夢見ていたとき」と、まったく同じなんですよね。 結婚してない間は、結婚生活がどんなのか本当には体感できていませんが、 結婚してる状態(次元)に移行してしまうと「あ、そっか」と体感的理解が落ちるわけです。 そして「結婚ってどんなかな、ワクワク」となってた感覚は、すっかり忘れます。 「〜どんなかな、ワクワク」に「飽きた」が起きたという状態ですね。

同様に「悟り」は「五次元移行」「次元上昇」と語られていた状態と同じようなものです。 「悟り」が落ちると「五次元世界」の体感的理解も落ちるので、 「五次元どんなかな、ワクワク」の気持ちを「忘れる」「飽きる」という状態になりました。

「願望実現」「思考の現実化」などに夢中だった時代

私には叶えたい大望があったので、「願望実現」「引き寄せ」「思考の現実化」 といった項目には大いに夢中になり、それ系の本や記事を読み漁りました。 「思考は現実化する」と本気で信じていましたね。(マイブーム)

ところがこの項目、「悟り」の感覚が肚に落ちてくると、大逆転を食らってしまうんですよ。 感情や思考は完全自動運転で湧き上がっては消えてゆくものである、と理解してしまうので、 「思考は現実化していない」「思考によって現実をコントロールすることはできない」 という実相が見えてくるようになってしまいます。

ここは多分スピリチュアル願望実現系から「悟り探究」に入った人が、 一番「ガーン!」となってショックを喰らい、自我が強烈に 「気づくこと」に抵抗する項目じゃないかと思います。 というか、私自身がそのタイプでした(笑)

しかし「願望実現に対する執着」が手放されて消える(飽きる)ことによって、 ようやく次のマイブームであるところの「悟り」が到来できるスペースが空く、 という言い方もできると思います。

「悟り」が「諦め」と言われる所以のひとつでもあると思いますね。

「インナーチャイルド」「浄化」「思考観察」などに夢中だった時代

ふわふわ系スピリチュアルにハマった時代を経て、自分の奥底に眠っている、 「ネガティブな観念」を観察して手放す(浄化)ワークが次のマイブームとして到来しました。 まさに「夢中」って感じで、A4紙1カートン分くらい自分の思考を書き出してましたね(笑) 毎日毎日、そういうことしかやってない日々が続いていました。

ところが、このマイブーム(夢中)にも、やっぱり「飽きる」「忘れる」の時が到来します。 「悟り」の感覚が落ちると、「なーんだ、浄化や手放しワークとか実はいらなかった」 と気づいていったのです。 「そんなことやるまでもなく、私はずっと『今ここ』に居続けていたんだな」 「なんだ、最初から、生まれた瞬間から、ずっと『ありのままで完全』だったんじゃん」 という気づきが肚に落ちる状態を迎えました。

そうなると、もう「インナーチャイルド」「浄化」などのキーワードや、 そういう本、WEB記事などを見ること、見かけること自体が無くなっていきました。

「悟った私」「悟り」がマイブームとなっている、現在

で、今現在の私はというと、「悟った私」「悟り」が、 絶賛マイブームという思考状態なんだなと思います(笑) この一年くらい、「悟り」について書いてあるブログなどを読み漁ってますから(笑)

これは、別の言い方をするなら、 自我が、「悟った私」という思考を掴み取ってしまっている、 「悟った私」という思考との一体化が起きている状態である、とも云えるんだなと思いました。

だから私は、ここ最近ずっと「悟りとは〜〜なものですと語り、記す人々」を見てるのですね。 私の目に映る「悟りについて語る人々」とは、 それがいかなる素晴らしいマスターや覚者であれ、 私と同様に「悟った私」という思考(エゴ)との一体化が起きている状態を表現している人 であると思います。

どれほど素晴らしいことを語り、伝えていようと、「悟りについて語っている」こと自体が、 「悟った私という思考との一体化」の表現である、ということだな、と理解しました。

これは、マハルシもOSHOも、どんな覚者も、釈迦すらも例外ではありません。 なぜなら、この世界は天上天下唯我独尊の「私の反映」だからです。

ということはですね。 これまでの「マイブーム」に、ことごとく「飽きて」「忘れる」が到来したように、 「悟り」「悟った私」に対する夢中状態、マイブーム状態も、 やがて飽きて、流れ去って、すっかり忘れてしまうときが到来するんだな、と思いました。

なるほどね〜、それが 「悟った私というエゴ消滅のプロセス」 ってやつなのか〜 と思った訳なのです。 やがて私は「悟り」にもすっかり興味をなくすんだろうなあ。 今はまだマイブームが去ってないから、こんな記録も書いていますが。 (なにせ、悟りについて書くとめっちゃ夢中無心になれるんで・笑)

「悟りに興味をなくした後の世界」が、どんな感じなのかというのは、 「結婚生活」や「性暴力の怒りを忘れた世界」や「五次元移行後の世界」が、 空想はできても実体感を伴っていなかったのと同じように、 今は、どうなるのか、ぜんぜん分かってないし見えてないし体感もありません。

でも、「悟り」が消えた後に、必ずそれは新しく到来するのだと思います。 そっちの世界、楽しみだな〜。 はやく「悟り」に飽きたいですね(笑) これが、「退屈のその奥」ってやつなのかもしれません。 知らんけど(笑)

—2022.07.27 新緑めぐる




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