「悟り」の本質は「漫才」や「コント」である




「悟り」の本質について、お笑いの構成作家になったつもりで、 漫才の台本として書いたとしたら、こんな感じになると思います。

ザ・悟り漫才☆

「ここにいなさい!」
「ここにおらんかっちゅうとんねん!!」
「ここにおれやあぁぁーーー!★!@!?!」
by ボケ役の漫才師
「さっきからずっとおるやろがボゲえぇぇーー!!!」
by 飛び蹴りツッコミ漫才師

飛び蹴りされて「あ、せやった!?」とキョロキョロしたあと、 正気になるまでが人生漫才劇場の第一幕(1ネタ目)ですよね(笑)

で、この後に 「もうええわ!  どもっ、ありがとうございました〜☆」 と言って漫才師が舞台から引っ込んでいったら、その場合は人生が、 「死」=「入滅」=「涅槃」することになっている運命 ということなのでしょうね。

そうではなく、もしも舞台上の漫才師が、 「もうええわ!  いやそやけど僕らもほんま頑張っていかなあかんなあと......」 と、それまでのネタをさら〜っと流して(忘れて)、次のネタに入りだしたら、 「悟り」自体も忘れて、「悟り」後の人生を始めることになっている運命 ということなんでしょうね。

私は自分の人生には「入滅」をやるんじゃなくて、 「いや僕らもほんま頑張っていかなあかんなと思てますねんけども、ところで君〜」 とやりだして欲しいですね(笑)

でも、それは、「生きる」をやってみないことには、 どうにもこうにも、どうなるか分からん、ということになってますね(笑)

自分は漫才の脚本を書いた構成作家でもあるわけだから、 「飛び蹴りツッコミ」の後の展開がどうなるかは知っているわけです。

そして自分は、舞台で演じてる漫才師でもあるわけですから、 やっぱり、「飛び蹴りツッコミ」の後に自分たちがどういう動きをすることになってるかも、 あらかじめ練習してあるし(潜在意識では)、知っているわけです。

けれども自分は、漫才を見ている観客でもあるわけですから、 「飛び蹴りツッコミ」の後に漫才師がどう動くのかは、 分かっていない(顕在意識では)わけです。

真理を探し求めて「悟り」を追いかけていた時代は、 てっきり「悟り」ってなんか叡智に溢れた高尚なものだと思っていたせいで、 まさか「ただの漫才のボケ・ツッコミみたいなもん」だなんて、 想像できてなかったな〜(笑)

でも、最初にそんな露骨なヒントをもらってしまっていたら、 「悟り探し」をこんなに夢中になって楽しめなかったと思います。

人生はいつでも、人生を歩く主を、大笑いさせたろうという気満々なんですね。

—2022.07.27 新緑めぐる




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