悟り後、死者の世界はどのように感じられるのか 〜 空観、仮観、中観 〜




私は20代半ばで身内の自殺を体験しています。 その半年ほど後には友人が行方知れずになり、さる地方のホテルで縊死しました。 こういった体験は自分の根深いところに「死」に対する苦の感傷を刻みこみ、 真理探求の道へ向かわせるための土壌を醸成させる要素ともなったと思います。 それ以外にももっと直接的な「苦」の要因はありましたが、 悲愴な死というのは、人生をぼんやりとした哀しみのベールで覆うものとして機能しますね。

で、私は「真我実現」が起きる以前は、スピリチュアルに傾倒していました。 その頃は、前世とか死後の世界、死者との通信などの世界観をばりばり信じてたんですね。 そういう世界像を自分が採用している時期は、 「本当にそれらが在る」と感じられるような体験をバンバンしていました。 自分の「概念=かけている色眼鏡」が世界像をつくっているが故ですねえ。

それなりに「チャネリング」もできるようになっていたので、死者の声を聞くことができ、 旅先で出会った人の亡くなった伴侶と通信が繋がったりして、 メッセージを届けて、先方は滂沱の涙、こちらも愛を感じて大感動、なんてこともありました。 友人の亡くなった家族の映像も見えましたし、亡くなった祖母の姿も見えました。 お世話になった人が亡くなったときは夢枕に現れ、映像のクオリティがあまりに鮮明で、 いたく感動したりしました。 「死んだ人」がよく現れては、「生きている人」にメッセージをくれて、 より良い道へと導いてくれる、助けてくれるという、そんな世界観の中で生きていたのです。 金銭を介するようなことは一切していなかったですけれども。

ところが、「悟り」が落ちたら、その死生観はどうなるのかというと‥‥‥。
人間は生まれたこともなければ死ぬこともない
生と死にそもそも区別はない
生も死も幻想である
という理解が到来してしまうんです。 つまり「死後の世界」なんてもの自体も幻想に過ぎなかったという理解になるんです。

これは、よ〜く読んでいただくと分かるのではないかと思いますが、 この「生も死も幻想で、死後の世界なんてものも幻想に過ぎず、生死などない」 という考え方や言い方自体も、「概念に過ぎない」ものなんです。 「ただ、世界をそのように捉え、世界をそのように見て、そのように規定することもできる」 というだけのことなのです。

これは、「悟り」それ自体にも、同様のことが云えます。 「悟り」と云われている状態の正体も、実はただの概念でしかないんですよね。 「悟り」で語られている世界像とは、 「この世界を、そのように捉えることができる」 「そして、そのように捉えると世界の謎のすべてを網羅し得ると感じることができる」 「世界の真相について納得できる意識状態になる」 「世界の謎のすべてを網羅したと感じられることによって安楽の意識状態となる」 と云うことが出来る、という、それだけのものに過ぎないのです。

つまり、「悟り」によって語られている世界像(=無、空即是色、真我etc)といったものは、 真理それ自体ではないのです。 この世界を「幻想である」と規定した以上、それを「真理である」と100%確定できる何かなど、 この世界のどこにも見つけることができないからです。 「幻想」の中から「確固としたなにか」を見出すことなどできないですからね。 この世のあらゆる「考え」のすべては、「仮説」以上にはなり得ず、 「考え」それ自体が、真理になるということはできないのです。

だからこそ、「悟り」それ自体も幻想であると分かった と語られるんですね。 だからこそ、「無知の知」=「知らないということが分かった」なんですね。

あらゆる「概念」が自分の脳内、意識の中にしか存在しないのだから、 自分の意識の中でしか存在を認識できない「悟り」もまた、ひとつの概念に過ぎず、 「意識の中にしか存在しない実体のないもの = 幻想」と述べる以外にできないのです。

と、話がそれましたが、 そんな訳で、「生死に関する体験」も、自分自身が死生観や死後の世界というものを、 どのように考えているか、どんな色眼鏡をかけて観照するのかによって、 体験できる世界像が異なってくるのであって、 「絶対の見解や真実が存在する」と云うことなどできないわけです。

ここで私の個人的な体験の話にもどりますが。 私は何度か書いているように、「悟り」が到来して以後に家族の衝撃的な死を体験しました。 衝撃度だけで云うなら、20代の自死事件よりも受けたインパクトは強かったです。 これは、自分の死生観の転覆を決定づける出来事として到来したと思います。

警察署で遺体と対面した瞬間に、落雷のような「理解」に全身を貫かれたんですね。 それは、このような理解でした。
「うわっ、この肉体、完全に人形じゃん。空っぽじゃん」
「最初から、この肉体の中に魂なんか入ってなかったんだ。ただの人形だったんだ」
「肉体に生命が宿っていた訳じゃない。彼の命は生まれたことなんかなかったんだ」
「彼の命はただずっと、私の中に、私の意識の中にのみあっただけなんだ」
「彼は自分が創造したものであり、自分自身だった」
「自分の意識が他者かのように見せていた、幻想にすぎないものだった」
「彼は自分自身なのだから、彼の魂が存在する、という言い方はできない」
これは、それ以前の「人は生まれて死ぬ存在」という考えのいっさいを転覆させる、 「人間は生まれたこともないので、死ぬこともない」という世界像が、 電撃のように落ちてきて、どしりと根をはった瞬間でした。 実践的な人生経験による「体験」を通じてしか、「真の体感」は落ちないのですよね。 だからこそ、悟りの意識を定着させるために「家族の死」という衝撃の出来事が、 私の人生に到来した(起きる予定の通りに起きた)のだと思います。

この出来事を通じて、死生観に関する恐怖心が吹き飛ばされてしまったために、 私の意識は「無敵の状態」みたいなものを一段階深いレベルで獲得したように思います。 これからは、大切な人とどんなに悲しい別れ方をしても、うろたえないでしょう。 (表面上は悲しんでいても、内奥の平安を維持している状態)

で、前置きが長くなりましたが、ここからが本題なのですが。 「家族の死」によって「人間は生まれもせず死にもしない」という死生観を確定した私は、 当然、スピリチュアルにはまっていた頃のように、「死後の世界」「霊魂」「魂」 といった考え方を、もう信じていないわけなんですね。 故人もまた自分自身である、と理解しているわけですから、 「霊界」や「死後の世界」に住んでいる家族の魂など「無い」と思っているわけです。 そんなものは、ただの「想像」「概念」「考え方」「捉え方」に過ぎないのだと。

それでですね、実は、上記のような「概念」を採用しているにも関わらず、 私は家族を亡くしてから、スピリチュアルにハマっていた頃と同様に、 故人の声をはっきり聞いたり、「故人が夢枕に立つ」といった体験をたくさんしてるんです。

で、そのような話を、必要があって他の家族や友人知人に語るときには、 当然のように「霊魂の世界」「死後の世界」というものがあって、 そこで故人の魂が自由にかけめぐっている、という世界観を前提に話をしているんです(笑) 「今ごろあっちの世界で、忙しく動き回ってるんだろうね」なんて具合に。

これは、以前の記事で書いた 「悟った人は、縁起の次第によって平気でウソを云う」という話と同じ現象だと思っています。 『「悟り人」は悟りを語らず真理について平気でウソを云うという話』 新緑めぐる,2022年8月30日

家族や友人知人と故人について語り合うときには、 縁起の次第によって、より社会通念と近しい「死後の世界」という「概念」を採用した状態で、 ぺらぺらと口から言葉を流れるままに流れさせているんですよね。

そしてもうひとつ、興味深いことがあるんですね。 つい先日、家族で故人を偲ぶために思い出の地をめぐったのですが、 車の中で、故人のスマフォに入っていた故人の好きな音楽をずっとかけていました。 昔、彼が好きで聴いていた曲が流れてくるんですね。 すると、やっぱり、人間的な情愛の気持ちがじわ〜っと湧いてきて、 涙が溢れてくるんですよねえ。 生きていた頃の記憶映像が蘇って、慕わしい気持ちになるわけです。

ところが、意識の奥では、私は「霊魂の世界も幻想である」という概念を採用しているので、 「彼が存在したこと」も「彼の魂の存在」も、ぜんぜん信じていない、 という意識が、自分の中心にちゃんとあるんですよね。 そういった感覚を、涙を流しながらも、自分で認識し、観照していました。

これはなにか少し、不思議な感覚でもありました。 「信じてもいないし、在ると思ってもいないもの」を感じながら、 しかし確かに、人間らしい情愛を感じて、感情が起こり、涙まで流している。

この意識状態はなんとなく、「宙ぶらりんな感じ」という言い方が相応しい気がしました。 「信じていない」と「しかし確かに感じている」という相反する感覚が、 同時に存在しているような感じ。 どちらにも偏らない、中間の地帯で、宙ぶらりんのままでいるような感覚 とでもいいましょうか。

そして、「ああ、この感じを、中観と云えるのかもしれないな」と思ったんですね。 「空観 = すべて幻想である」の方に偏りすぎることもなく、 「仮観 = 色の世界、この世の存在を重視する」の方に偏りすぎることもなく、 その中間地帯で、宙ぶらりんの意識で、ただ起きていることをそのまま受け取る。 そんな具合のところに、いま、自分はいるのかと、そう捉えました。

この状態を観察するのは、なかなか興味深いことでした。 一言で云うと、「とらわれがまったく無い状態」を体験しているようでした。

死後の世界を信じてもいないので、執着も生じておらず、 かといって、起きる感情はそのまま川が流れるように流している。 「なにも起きていないと同時に、なにかが現れて消えてゆく」 を、実感をもって体感したように思います。

今のところ、私の世界像の中の「死後」とは、そんな具合になっているようです。

—2022.09.13 新緑めぐる




もどる