「悟り」状態から、「生きる」に対する喜びや恐れをとりもどしてゆく行程




「悟り」とは、解脱や悟りという概念それ自体が幻想であったと見破ること、 という云い方もできると思います。 「真我(観照意識)の自覚」が落ちると、やがて「悟り」が到来し、 解脱の概念も自らが創り出した幻想であったと知るため、 「解脱」それ自体が、「悟り」それ自体が、 内側から崩壊することによって、「それ」を超えた意識状態が到来する。 結果、「解脱した」「悟った」という状態になったということを「自我」が理解する、 「無=真我」由来の体感的理解が生じることで、「思考レベル=自我」による理解も到来する、 と云うことができるのではないでしょうか。

そこまで来ると、「自我」(の中でも不要な重みをもった自我)が崩壊すると同時に、 「真我」と一体となって歩む「シンプルな自我」が、新たに見いだされるようになります。 「真我に従順な自我」が内側から現れてくる、 「思考」「感情」「人生」を流れてくるままに味わうことに抵抗しない「自我」 という云い方もできるでしょうか。

「わたしは存在しない=真我」と「わたしは存在する=自我」が、 足並みをそろえて共に歩むようになる、と云うこともできるかもしれません。 「無として有を生きる」「空として色を生きる」とも云えるでしょうか。

そして「真理への渇望」が消えることで真理探求に決着がつき、 「知らないということが分かった=無知の知」の座に精神がどしりと落ち着く、 そんな状態に至る、と云うことができるのではないでしょうか。

「悟り」に対して持たれている一般的なイメージの、大きな誤解のひとつに、 「悟ると、もう人生で苦しまなくてよいようになる」というものがあると思います。

これが「誤解」であることを、悟りが落ちた人々は、みな心得ていると見えます。 「悟り」が落ちても、人生から「痛い」「悲しい」「辛い」といった出来事が、 なくなる訳ではまったくないんですよね。 ただ、「これは苦しい体験だ」とそれまで定義してきた出来事を、 「苦」と見なして定義する意識状態から、脱出するだけなのです。

ですから、人生には引き続き、上手くいかない出来事も、病気も痛みも、 大事な人が亡くなるようなことも、夢が叶わない現実だって、到来します。 そういった苦しみに見える出来事から「自我」が逃げ惑わなくなる状態にまで、 「暴れる自我」を手なづけて「真我」に従順にさせ得た状態が「悟り」 と云えるのではないでしょうか。

そしてこの状態は、追い求めて得られるものとはなっていません。 「あ」という地味さで、いつの日か到来するように、 その「種」が、あらかじめ人生に埋め込まれてあるのです。 適切な開花期が来なければ、花は開花しません。 適切な開花期が到来すれば、花は必ず開花します。

私は、「悟り」が落ちてしばらく後に、とても大切な肉親が、 この上ないと思うような衝撃的な死に方をするという事態が人生に起きました。 詳細は伏せますが、警察で遺体と対面するような死に方ですから、なかなかの人生体験です。 この出来事を通じて、私の自我はおおいに、 「嘆き」「慌て」「驚き」「焦り」「恐れ」「絶望」しました。

そんなに慌てふためく人は、「悟り人」なんかじゃないのでしょうか? 「悟り人」ならば、人生に「苦」の出来事など招かないはずだと思うでしょうか?

いいえ、ちがう、と私は答えます。 絶望する自我を観照している私の内奥には、「涅槃」がたたえられていました。 「沈黙の真我」に気づいている私は、 「自我」が嘆きを表現しているあいだも、「涅槃」にたたずんでおりました。 そうして、「嘆き」も「恐れ」も「絶望」も、 川の流れに抵抗せずに、素直に流れ去っていきました。

「自我」が「嘆き」や「恐れ」や「絶望」をじっくり味わい体験するのを見送った私は、 ほんの少しの期間で、すぐに健やかで平穏な精神状態にもどりました。

世人の多くが(以前の自分が)絶望におののくだろう「事件」は、 私にひとつも傷を残すことをせずに、ただただ、流れ去っていったのです。

「悟り人」はシンプルに生きているが故に、常に平安に安住している、 といわれる状態に至っていると云って差し支えないように感じています。

「悟り」から「生きる」へと復帰する道のり

さて、上記のような状態に至った私は、 「悟りについて語り、他者を教化し、助けようとする人々」 について、この一年ほど観察を続けていました。

「悟りは幻想である」と見破ったにも関わらず「悟りを語る」という態度は、 私自身にも表れているものです。

これについて私は、「悟った私」という思考のつかみ取りが起きている状態、 「悟り」によって「悟った私」への執着(煩悩、カルマ)が新たに誕生し、 それが滅していないので、滅するための消化(昇華)活動をしている途中の状態であろう、 という見立てや観察を行っていました。

私の観察では、この状態は「完全な悟りとの一体化」が起きる前段階の行程を 示しているのだろうと見ています。

なぜなら、「悟りについて語り、他者を教化し、助けようとしている人々」が、 (このような人々には、マハルシや釈迦などの高名な聖者の様態ももちろん含まれます) 実際になにを行っているかというと、これはどこまでも 「他者との対話のように見せかけて、実は自分自身との対話を続けている状態」 ということが云えるからです。

人間は「縁起」によって生じる他者との関係性を通じてしか、 「自己」の状態を知ることができませんからね。

「自分の悟りの状態」を知ろうとするなら、「悟り」について「他」に向けて発信したり、 「他」を見ることで、その反響や反照を通じて自己確認するしか方法はないのです。

「悟っている人」は、他者に話しかけているように見せかけているけれど、 実は自分自身に対して、あるいは「虚空」や「空」「無」にむかって語っている、 という自分自身の状態に自覚的であると思います。

ここで少し話が変わりますが、 執着、煩悩、カルマとは「現象世界(色の世界、色界)の人生における未体験項目」 という云い方ができると思っています。

未だ体験していないゾーンを体験したいという、「無=源の意識」由来の欲求で、 この「煩悩=根源欲求」こそが、この「幻想世界=現象世界=色界」を、 生じさせている根本理由であると見ています。 「朝起きたら、まだ世界が消えていない理由」ですね。 「入滅=涅槃=完全な悟り」の状態にならない理由とも云えます。

「悟った私」という思考への執着はつまり、 「悟り」が落ちたので、今度は「悟りについて確認を繰り返し、定着させたい」 という未体験ゾーンへの欲が生じている状態であると、私は見ています。

では、なぜこの「悟った私に対する執着」が生じるのか、 このことについて、私はここしばらく、ずっと観察し、考察していました。 「悟った他者」を見ていても「自己」を見ていても、よく分かる気がするのです。

これは、「つづきの生きる」に対する「恐れ」から生じているのではないかと感じています。 「つづきの生きる」とは、「悟った後にもつづく人生」のことです。

なぜ「悟り人」に「つづきの生きる」に対する恐れが生じるのでしょうか? そんなものはまったく「悟り人」ではないような気もしますが、 本当にそうなのでしょうか?

私の観察による当面の解は、このようなものです。 「悟り人」となる人は、真理探求を渇望し、その道に歩みだす前提条件として、 人生において強い恐怖を感じる体験、苦しみの体験をしていることがほとんどです。 ですから、「悟り」の意識状態が到来し、ふたたび「つづきの生きる」の中に戻るときに、 「生きる」に対して「怖い」という奥深くの思いが揺り戻されてくるのです。

この「生きることに対する怖さ、恐れ」は、「悟り」と対極をなすものなので、 「自我」にとっては「見たくないもの」となります。 「悟り人」の意識には、この「恐れ」を隠そうとする「自我」の動きが生じます。 この「怖さを隠そうとする自我の動き」が、「悟りを語る」の奥底に隠されていると見えます。 「自我」は非常にみごとに「見たくないもの」を隠す性質を持っていますから。

「悟り」が落ちても、現象世界(幻想、色界)が生じているということは、 そこに何らかの「自我の動き」が隠されている証拠と見ることができると思います。

「恐れ」を見たくない「自我」が、 「この世界は幻想ですよね?」「ふたたびあの人生の苦の中に戻ることはないですよね?」 と、しきりに問い直しをし、安心を得ようとしている これが「悟りを語る」という意識状態に生じている自我の動きではないでしょうか。

「悟りを語る」を行う人にはいくつかの特徴が見られることに気づいていきました。 自己観察と他者観察の結果、隠されている可能性のあると見えた 「恐れ」について書いてみたいと思います。

(1)他者を教化し、導こうとする姿勢が見られる。左脳に縛られる意識が強い。 「意識=無」を繰り返し確かめ、安心したいという欲求の表れ。反転的な行為。
→「知らない」「分かっていない」を隠そうとする自我
→ 智慧についての承認欲(知らなくてよいと云って欲しい)

(2)他者をサポートし、助けになりたいという姿勢が見られる。他者を認識する意識が強い。 「存在=色界と無色界の対比や合一」を繰り返し確かめ、安心したいという欲求の表れ。
→「そのままの自分という存在ではいけない」を隠そうとする自我
→ 存在についての承認欲(ここにいてよいと云って欲しい)

(3)悟り後の平安や喜びをよく味わっている姿勢が見られる。至福を表明したい意識が強い。 「至福=根源の平安」を繰り返し確かめ、安心したいという欲求の表れ。
→ 「人生は怖い」を隠そうとする自我
→ 生命についての承認欲(生まれてよい、なにもせず生きてよいと云って欲しい)

上記は、ラマナ・マハルシの語る サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福) に対する「欠乏感の裏返し」が、 それぞれに漏れている、表現されている状態とも云えるのではないでしょうか。

「自我」が繰り返し認識したがっているということは、 「あるよね?」「本当だよね?」「大丈夫だよね?」と、 幼子のように何度も何度も確認しようとしている、と云うことができると思います。

こういった「残存自我」「残存カルマ」「残存煩悩」「残存執着」の傾向が 沈静化されてゆくと、やはりその人物からは、 「悟りを語る」という姿勢が消えていくのではないかと、私は思います。

「悟りを語る」をやめて「悟りを隠す」に移行してゆき、 本当の意味で「つづきを生きる」の中に入ってゆくことになるのではないか、と。

では、「本当の意味でつづきを生きる」とは、どういう状態かというと、 再び人生に苦しみや絶望の事件が起きるかもしれないという「恐れ」も、 再び人生で人と交わり、歓喜することが起きるかもしれないという「希望」も、 そういった思いと丸ごとに一体化して、 「朝起きたら、やっぱりつづいているこの世界」を、 「未来に起きることはなにも分からず、自分がなにを知るのか知らない」 という立ち位置(無知の知)にしっかり根ざした状態で、 思う存分に「生きる」を味わってゆくことを、すっかり決めた、という意識の状態です。

あの、人生のひととき、「とても怖いもの」と感じた「人生」の中へ、 再び、本当の意味で生まれなおすため、ダイブしようという意識の状態です。 「解脱」や「輪廻」の概念を崩壊させた意識で、「再び生まれる」を行う意識。

この「本当の意味でつづきを生きる」の状態と、「しきりに悟りを語る」の状態とは、 意識の状態が、やはり精妙に異なっているようだ、と私は観察しています。

つまり、「悟りの後にも、まだ奥深くに残る恐れ」が沈静化したら、 「悟り人」は、「悟りを語る」をやめて、 「黙る、そして生きる」に移行するだろうと、私は思います。

生きる(煩悩・未体験の消化) → 悟る → 悟りを語る → 悟り後の恐れからの脱却と喜びの取り戻し → 悟りを語るをやめる(第一の沈黙・入滅) → 生きる(煩悩・未体験の消化) → 入滅・涅槃・完全なる沈黙(第二の沈黙・入滅)

そのようにして、「悟りを語る」の場から消えていった「悟り人」を、 幾人か見ているなあ、という気がしています。 やはり、「普通を生きるのが人間の悟り」かな。 みなさんは、どのようにお感じになるでしょうか?

などと、虚空に向かって問うてみるのでした。

—2022.08.22 新緑めぐる




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