「真理」の地にしばし休み「隠蔽」の地に再び生まれゆく




昨日は学生時代にお世話になった方と、美味しい飲み屋さんでサシ呑みしてきました。 2020年から、コロナと自己探求の両方の理由で、 それまで共に呑み、語り合いとしていたような友人や仕事関係者との縁は、 自然に切れたり、意図的に自ら縁を切ったりとしていきました。 仕事も意図的にすべて辞めて、人生、仕事、人間関係をゼロベースにした感じでした。 スクラップ&ビルド、破壊と創造、死と再生、ですね。 「新しく生まれなおす」をするために、自分にとっては必要かつ必然の行程でした。

私は、2020年から現在にかけては、あまり社会とは深く関わらず、 「社交性はそれなりにある引きこもり」みたいな感じで生きてきました。 「悟り考察」に耽溺する時間を過ごしていたと思います。 「悟った私」というアイデンティティに執着し、「悟り」の中に引きこもっていたとも言えます。 あっという間で、さほど時間など経っていない気がしますが、 2年半以上も「悟りに引きこもる」をやっていたのかと思うと、けっこうな年月です。 釈迦の「梵天勧請」のエピソードは、 本当に「悟り後」の様子をよくメタファー化しているなあと、度々関心します。 釈迦もやはり、「悟った私」状態の引きこもり精神を発動していたのだろうと私は考えますね。 釈迦の創造主=わたし、ですし(笑)すべての解釈は正解ですしね。

で、サシ呑みの時間は、とても豊かで味わい深い、よい時間となりました。 思い返すと、「悟り」なんて概念はまったく何処かに消えていた時間でもあったなと思います。 だってね、誰かの噂話をしたり、愚痴を聞いたり、今時の学生の話、 これからの未来の夢や希望、それぞれの家族のこと、人生に起きた事件について報告したりと、 まったく「悟り」に至る以前と、ぜんぜん変わらないなあという人間模様だったのです。 ただの酒席の四方山話、という時間だったんですね。 人間の情や、様々なひとの人生航路の悲喜交交がナチュラルに感じられて、 変に「悟り頭」を発動させて、眼前の出来事を冷静に観照&俯瞰するような態度も起きず、 目の前の色の世界、人間くさい世界の中に、そのまま没入している、そのまま受けとっている、 そんなふうに過ごせていた気がする時間でした。

自分にとっては、この「観照意識が意識されていない状態」という体感が重要でした。 妙に覚めて冷静にならず、「色の世界」を人間らしい情緒豊かな没入状態で味わえているなと、 そういう感覚があったんですね。

逆に、以前にも書いた「家族の死」という衝撃的な出来事があったときは、 この「観照意識」がよく認識されて奥底の冷静さを常に感じられている状態というのが、 とても有効に活用されていたなと思います。 おかげで本質的にはまったくパニックにならず、平安と共に在れましたからね。

でも、人間人生のひきこもごもを心から味わおうとなると、今度は逆に、 この「観照意識」をはっきり捉えている状態というのは、かえって邪魔になるなと思います。 半分以上「空」に意識が持っていかれているような感じですからね。 良く言えば冷静で平安に滞在している状態という言い方ができるし、 悪く言えば、いささかサイコパス的に情緒が欠落していて、共感性に欠ける状態になる、 という言い方もできると思います。

実際、スピリチュアル探求であれ悟り探求であれ、道を進んでいって、 「この世界の幻想性」を理解する感覚が発展するほどに、たいがいの人は、 ニュースの悲しい事件に心を激しく揺さぶられるような感性は喪失していきますよね。 その状態とは、「真我=観照意識」がチラ見えしているようなものだと思います。

ちなみに、真理探求の道では上記のような「平安、平静」の意識状態を、 「今ここ、にいる」なんて言い方をしている方が多いですが、 実際の意識の状態としては「今ここ、にいない状態」などというものを、 そもそも実現しようがないわけですから(命が今ここにいない瞬間などないので) この「今ここ、にいる」なんて言い方も、パラドックスまみれの奇妙なワードですね。

あたり前だが、「真理」を語る言葉にはバリエーションがない(笑)

私は、「悟り」が落ちてしばらくは、「悟りの意識」とはどういうものなのか、 ということを考えたり、見たり、考察し、論理的に書こうとすることなどに夢中でした。 真我、無為自然、無我、非我、色即是空空即是色、中道、などと表現されるものについて、 体感的理解で得たものを、今度は論理的に捉え直そうとしていたんですね。

真理探求や悟り探求について教える書籍などは、こういった論理的な再把握の恩恵として、 この世に記し表されている訳ですから、当然、これらの営みはとても大切なものだと思います。 そして、それらの構造を、言葉を駆使して論理的に他者に伝える行為も大事なものだと思います。

だけどねえ、「真理」について、論理的にあるいは体感的に把握できたことって、 「人生上の実践」という意味では、たいして重要じゃないかもなあと感じてもいます。

じゃあ、自分にとって「悟り」の恩寵でもっとも重要なものって何だったかというと、 「生きてるだけでまるもうけ」であることが分かるということ、 人生を生きることに自分の責任がないと分かったこと、 故に、とても安心して、くつろいだ気持ちになれたことですね。 そして、おかげで自分の人生を思う存分生きる勇気を得られたことです。 「生きることが怖くなくなった」 それに尽きると思っています。

それ以外の、「真理の構造把握」のための論理解説にあたるような言葉の数々、 空、無、無我、真我、中道、非二元などなどは、 どこまで行っても、構造を理解するための計算式のようなワードでしかない。

で、何が云いたいかというとですね‥‥‥ もはや「この世界や宇宙、人生の真理を語る言葉」をいくら摂取しても、 あまり「面白いな」と思わなくなってきているのです。 いや、もっと率直に云うと、「つまらない」「退屈」と感じるようになってきている(笑)

だってね、「真理」は「真理」なだけあって、ただひとつのことを指している訳ですから、 「それ」について語る言葉たちも、たいがい、同じようなことしか云ってないですよね(笑) あたり前過ぎることだけど、バリエーションが少ないわけです(笑)

それに比べるとねえ、 個々の人々の人生の、なんとも個性的でバリエーション豊かなことと云ったら!! 表現の種類も、はかりしれないほど多いです。 音楽、絵画、文学、お笑い、スポーツ、各種エンタメから、犯罪やニュースにいたるまで、 なんと矛盾に溢れて、喧々諤々と騒々しく、わやくちゃでワケワカメなことでしょう(笑)

この騒がしい多彩な色の洪水が見せてくれていた、 「生きる」の世界で起きていた、さまざまなくだらない事どもの、 その曰く言い難い愛しさを、今、しみじみと思い出そうとしている気がします。

「神は細部に宿る」とは、よく云ったものだなあと思います。 そう、日常のほんの些細な一コマから、ほんの小さな一欠片から、 宇宙の真理が仄かにこぼれて見えていた、あの色世界の、 あの「隠し方」のほうこそが、私の大好きなものだったんじゃないのかい?

どうやら私はだんだんと、 「真理の上に鎮座してクールに色景色を眺めるというのは、オイラの趣味じゃねえな」 という感性になりはじめているように思います。 本体よりも、隠してる部分のほうが好きなのかな(笑) 色界とは、「隠蔽の地」ということもできるのかもしれません。

再び没入しよう、人生に。 再びダイブしよう、人生に。 その刻限が、どうやら近づいているのかなあ。 「恐れずに生きよ」かな。 懐かしい香のする彼の地へと、再び歩みだそう。

「犀の角のようにただひとり歩め」 という、釈迦が語ったといわれる言葉があります。 これには、「犀の角」というのは誤訳で、本当は「犀のように」だとする説もあります。 でも私は、「犀の角のように」というほうが、 「真実の人生」をぴったり表しているなと感じます。

なにせ、「犀の角」は、自分で歩いていないですからね(笑) 本体である犀の体の先っぽにのっかって、すいすいとどこかに運んでもらっている。 どこに行くのかは、「犀の角」には預かり知らないことなのですよね。

「犀の角のようにただひとり歩め」 毅然とした姿勢が伝わってとても潔く格好いい言葉なのに、 実は自分の足で歩いていないという「落ち」が、私はとても好きです(笑)

—2022.09.08 新緑めぐる




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