宗教2世として生きてきて、今どうなっているか(1)疑問を感じだした思春期




私はいわゆる「宗教2世」と言われるような家に生まれました。 仏教系の宗教で国政にも大きく関与しているところ、といえばすぐ分かるでしょうか。 小学生までは素直に仏壇に手を合わせ、親に倣って経文を唱え、 宗教の集まりにも言われるままに参加していました。 「神様仏様的な存在が見守ってくださっている」「困ったときの仏頼み」 「仏様が見ているので悪いことはできない」 などなどといった感覚がナチュラルに育っていったように思います。

しかし、小学校高学年くらいになると、だんだん 「あの子って◯◯なんだって」という周囲の囁き声が聞こえるようになってきて、 恥を感じたり、差別的な目や、奇異なものを見るような 「世間の目」を感じるようになりました。 この手の「周囲と違うことに恐怖や劣等感を感じる」という経験は、 宗教問題に限らず、さまざまな問題の中で起きていることでしょうね。

中学生になると、自分自身の考えとの不一致から、家の宗教に疑問を持つようになりました。 親の宗教観との不一致を感じるようになったキッカケのようなものというと、 とある天才的なスポーツ選手のファンになったことでした。

そして親はというと、熱心な宗教信者にありがちな言葉をよく口にしている人でした。
「毎日、お経をあげているから幸せでいられる、大難が小難で済む」
「私たちはお経をあげているから守られてるのよ〜」
「世の中で活躍する人材になろうと思ったらお経をあげなさい」
「◯◯みたいなものは邪宗だ」(他宗や他の考えを邪道とみなす)
「〜〜こそ最高の教えで、それと今生で出会えることはどれほど幸福か」(選民思想)
などなど、宗教あるあるですね。

ところが私は、大好きな天才的スポーツ選手を見てて、 (この人はうちと同じ宗教じゃないように思われる。でもめっちゃ活躍してるし、凄い人だし) と首をひねるようになりました。 自分の家と同じ宗教じゃない人でも、世の中には明らかに素晴らしい人や幸福な人が いっぱいいるじゃん、という、ごく素直な矛盾を感じていたのです(笑) 「うちは守られてるけど、そこやあそこは守られてないって考え方、酷くないか?」 と思っていました。 宗教新聞を開くと、激しい絶賛や激賞の文言ばかりが並んでていて、 (な〜んか、変じゃね? すげえ煽ってね? 無理があるんじゃね?) と、素朴に「いやなんかテンションおかしいだろ」と思っていました(笑)

この辺りの「特別意識」は、スピリチュアル界にも蔓延していますね。 「悟り」とは、こういった特別意識が全崩壊せざるを得なくなる地帯でもある という言い方もできるように思います。 「自分は凄い」「特別」「特に守られている」「凄い存在に導かれている」 「高次と繋がっていて特殊」「特別な使命がある」「特別に強い魂である」 「特別な体験をした」「特殊な人生である」「特別な不幸を生き抜いてきた」 などなど「他と比べて特殊ななんらかの状態がある」という思い込みが、 全崩壊させられたところからしか「悟り」の景色は現れてこないと思います。

そんな訳で、生家の宗教に反発するようになった時期は割と早かったように思います。 かといって私の場合は、宗教関連で親から強制的な行動をさせられることはありませんでした。 親子関係そのものについては、軋轢のある家ではなかったんですよね。 親は非常にのんびりした人たちで、放任主義で、 子の意志を尊重し、なにかを強制してくることもなく、 暴力もなく、両親の仲も良く、笑いの多い温かい家庭だったと思います。 昔も今も、両親については「いい親だなあ」と感謝しているので、 素直に親孝行したいな、という気持ちが育っているような次第です。

そのように「親からの抑圧」がなかったことも要因のひとつでしょう。 おかげさまで、親とは思う存分、バトル ができたな、という関係性でもありました(笑) 「出ていけーー!!」 「うっさいんじゃ!! クソババァァ!!!」 みたいな盛大にエネルギーを発散するタイプの口喧嘩は平気でバンバンしてましたね。 この「言いたいことを遠慮なくぶちまけられる」という関係性は、 その瞬間は腹が立って感情が爆発するのですが、 もっとも健康的なエネルギー発散法にもなっていたな、と思います。 こういう不満や恐怖やストレスがあるのに「言いたいことを言えない」という抑圧は、 ネガティブなエネルギーとして体内に蓄積しやすいように思います。

「言いたいことを言えなかった」ことに苦しむ人は多いでしょうね。 蓄積された「怒り」や「悲しみ」の根本でもあると思います。 私の場合も、親に対してはストレートに発散できましたが、 性暴力やDVといった外圧のあったシーンで、怒りを正当に発散できなかったことが、 最後の関門あたりで大きく噴出してきました。

で、そんな訳で、親に対しては割と年齢の若い段階から、 「あなたの宗教観はおかしい」「言ってることが矛盾している」 などの穏やかなものから、 宗教団体や、蜜な関係の政党の悪口も、さんざんぶち撒けてきました。 「大嫌い!!」「ほんまクソだわ」etc‥‥‥ まあ、もっと論理的に話すことも勿論ありますが、 (というか論理的にまくしたてるところが嫌なやつ、、、というタイプなのですが) 感情的に怒りをぶち撒ける、ということのほうが圧倒的に多かったですね。

で、それでも親はまったく譲ることなく、宗旨も変わらず、 今現在でも、親の宗教観自体はまったく変わっていません。

ところで、私がなぜそれだけ感情的に怒りを爆発させて生家の宗教を否定していたかというと、 その根本は、宗教それ自体に問題を感じていたというよりは、 「世間から差別をされる」ということ、 もっというと「結婚差別を受ける(受けた)」という現実に自分が見舞われていたから、 ということのほうが大きかったと思います。

結婚差別を受けたという事実、今後も受けるだろうという恐怖心を、 親に向けてネガティブなエネルギーをぶつけることで発散していたんですね。

現在では、親の宗教観自体はまったく変わっていませんが、 (しかし、大事な家族を喪失したことで経典の解釈に幅が出てきている様子が見えます) 私から親に、宗教観に対する否定や批判の言葉をぶつけることは無くなっています。 「好きにしなはれ〜」という態度になっている感じです。

今回はここまでにしたいと思います。 つづきでは、
・宗教2世に生まれたからこそ、スピリチュアルに救いを求めたのだろうこと
・宗教や結婚差別を通じて理解した思考や意識の状態についてなど
・どんなふうに差別問題が解決し、宗教に対する価値観が変わっていったのか
・「悟り」の地平から眺めた仏教観や、その他の宗教に対する思いについて
・仏教は「悟りを開くことを目的」として始まったのに、なぜ宗派に分離しているのか
などなどについて、自己整理もかねて、たどってみたいなと思います。

—2022.12.02 新緑めぐる




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